2007年01月24日
支倉常長
宮城で伊達政宗の次に有名な歴史上の人物と言ったら,この人しかいません。支倉六右衛門常長。日本史で習ったのを覚えている方もいることでしょう。歴史の話はしないつもりでしたが今日だけ。
支倉常長は,伊達政宗公の命をうけてローマ法皇に謁見した初めての日本人です。
その目的は,スペイン国王に会ってメキシコとの直接貿易の許可を得ることと,ローマ教皇に会って仙台領内での布教のため宣教師の派遣を依頼することでした。すでに徳川の世ではありましたが,メキシコとの貿易を望む幕府側との利益も一致したため,幕府も認めた正式な外交使節団でした。
常長と慶長遣欧使節団180人は,慶長18年(1613年)10月28日,サン・ファン・バウティスタ号という木造船で月の浦を出航しました。
しかし,日本を出て3ヶ月後,メキシコのアカプルコに到着した頃,日本では幕府が全国にキリシタン禁令をしいたため,それを聞いた乗組員のほとんどがメキシコにとどまってしまい,サン・ファン・バウティスタ号で旅を続けることができなくなってしまいました。
それでも,スペイン国王とローマ教皇あての手紙を預かっている常長一行はアカプルコで待ち続け,半年後の1614年6月10日,ようやくスペイン艦隊に便乗して日本人として初めて大西洋を渡ることになりました。
キューバ島ハバナを経由してスペインに上陸したのは,その年の10月5日。この時,一行の人数は当初の180人以上から30人ほどとなっていました。同行していた宣教師ソテロの出身地であるセビリアで大歓迎を受け,12月20日ついにスペインの首都マドリードに到着します。
1615年1月30日,日本出発から1年8ヶ月を経て,ついに常長はスペイン国王フェリペ三世に謁見しました。その場で政宗公の手紙を渡し,宣教師の派遣とメキシコとの貿易を希望することを伝えます。
国王からの返答を待つ間の2月17日,常長は王立跣足女子修道院付属教会において,スペイン国王やフランス王妃たちの列席のもと洗礼を受けます。洗礼名は,国王と聖人の名前を冠した「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」でした。
しかし,日本国内での禁教と弾圧の情報が国王の耳に入り,また,使節の目的が本当は貿易だけであることや,政宗公は日本の国王ではなく一領主に過ぎないことなど,常長ら使節にとって不利な情報が次々ともたらされていました。このような中,華やかな歓迎とは裏腹に国王から良い返答は得られず,使節は8ヶ月もマドリードに滞在させられました。
交渉を進めるためにはローマ教皇の力が必要と考えた常長は,1615年8月22日,予定どおりローマへ出発します。10月25日,使節団はローマへ入り,29日には常長は華麗な衣装を身にまとって入市式の行進を行いました。そして11月3日には,キリスト教の頂点であるローマ教皇パウロ五世に謁見しました。その時教皇に手渡された政宗公からの手紙には,フランシスコ会宣教師の派遣とメキシコとの貿易に関して,スペイン国王へなかだちを依頼する旨が書かれていました。
ローマ教皇から宣教師派遣の許しを得た使節は,再びスペイン国王と貿易の交渉をするためマドリードに戻ります。しかし彼らはそこに留まることを許されず,帰国のためにセビリアへと移されます。常長は使節団の大部分の人々をそこで帰国させましたが,国王フェリペ三世の返書を得るために自らはセビリアに留まって交渉を続けます。
しかし,1617年7月4日,返書を得ることは遂に叶わず,追われるようにヨーロッパを離れてメキシコに向かいます。そして,アカプルコに迎えにきたサン・ファン・バウティスタ号でマニラに到着します。そしてさらに,そこに2年間滞在した後,目的を達せられず失意のまま仙台に帰ってきました。時すでに1620年8月26日,月ノ浦を出航してから実に7年の月日が過ぎていました。
ところが,ようやく帰った祖国も安住の地ではありませんでした。既に幕府の権力が確固としたものになりつつあったこの頃,仙台藩も常長の帰国直前に領内にキリシタン禁令を出し,取り締まりの強化に乗り出していたからです。宣教師をよぶために使節を派遣した政宗でしたが,幕府の方針には従わざるをえない状態となってしまっていたのです。
その当時,太平洋・大西洋の二大洋を横断した人はなく,常長は現代なら一躍ヒーローでしょう。しかし,洗礼を受けて帰ってきた常長への待遇は冷たく,加えて,政宗公の命は実は海外への軍事協力であるとの説もあったため,稀代の功臣ともいうべき常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。
結局,常長はその後隠棲したままこの世を去りました。そのため,常長がどこに葬られたかはいまだに不明で,常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在しています。仙台市青葉区にある光明寺,常長の生まれ故郷とも言える柴田郡川崎町支倉地区の円福寺,そして黒川郡大郷町のメモリアルパークです。
常長は苦労の上,失意のうちにその人生を終えましたが,宮城の人たちは今でも常長を愛しています。その証拠が「支倉焼き」。バターと卵と砂糖を練り上げて作ったタネ(焼いたあと皮になる)に,クルミの入った白あんをのせ,木型に入れて焼き上げた,洋風どら焼きとでもいうお菓子。日本(仙台)と外国とをつなごうと努力した常長にはぴったりのお菓子で,「支倉焼」の文字が綺麗に浮かび上がっています。「支倉焼き」はあっても「伊達焼き」はないところに,常長への特別な愛情を感じます。ちなみに,「支倉常長ビール」というのもあります(ただし,こちらは「伊達政宗ビール」もありますが)。
ところで余談ですが(このブログすべてが余談ですが),常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」(国宝)の中に,「ハセクラ」という名を「faxikura」とつづった部分があり,当時ハ行を唇音(「ファ」)で発音していた証拠となっているそうです(つまり,「ハセクラ」ではなく「ファセクラ」だった)。また,正宗の氏名のつづりが「MASAMVNE IDATE」となっており,「伊達」は当時「ダテ」ではなく「イダテ」と読まれていたこともわかるそうです。歴史って,こういうトリビアルな話が面白いですね。
投稿者 watanabe : 2007年01月24日 22:24
コメント
もう、ひよこさんって、仙台市の『観光特命本部長』に任命しちゃいます。
ブログ読む(観る)たびに、仙台に行きたくなってる人がたくさんいるはず・・・・・・。
投稿者 MCAT : 2007年01月25日 14:39
支倉常長がローマに初めて行った事は歴史で学びましたが、詳しいことは知らなかったので日本人も凄いことをしたのだと思いました。コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマのことなど知らなかったと思いますし。ひよこさんは本当に勉強家ですね。それに話題豊富で羨ましいです。でもいつも本当に楽しく読ませていただいています。
投稿者 秋桜 : 2007年01月25日 19:03
MCATさん,最後まで読んでくださったんですか。ありがとうございます。常長一行が乗ったサン・ファン・バウテスタ号は,復元されて石巻にあります(写真の船や船首やマストなどがそうです)。航海はできませんが海に浮いていて,その当時のとおりの内部も船倉から甲板まで歩いて回れます。狭いのも狭いのですが,狭いがゆえに床にアールがついていて(平坦な場所がほとんどない),私だったら三半規管をやられちゃってとても何ヶ月も乗ってられないなあ,というのが第一印象です。昔の人は(常長は武士)我慢強かったですね。
投稿者 ひよこ : 2007年01月25日 19:49
秋桜さん,やはり最後まで読んでくださってありがとうございます。歴史って,好きな人は「そんなこと今さら言われなくても知ってる」し,そうでない人は「そんなこと言われても興味ない」ので,話をするのに躊躇します。「楽しく読」んでいただけているのなら,本当に嬉しいです。
投稿者 ひよこ : 2007年01月25日 19:52
そうそう,MCATさん,私の事務所の名称は,この「月の浦」からもらいました。仙台という片田舎にいてもいつも心は世界に向いていたいあなあ,という気持ちをこめて。ただし「浦」は「裏」に通ずるのでやめにして,同じ水の中で,コンコンと湧いて出る(知識や,やる気や,愛情や,仕事や,お金やetc)イメージに期待して「泉」にしました。住んでいるところの地名もちょうど「泉」だったし。でも,たいていは「仙台のお菓子の名前?」とか「日本酒の銘柄?」とか,あるいは「新興宗教?」とか言われます。
投稿者 ひよこ : 2007年01月25日 19:57
支倉常長、頑張ったのね~。なんか涙出てきちゃいました。
こんなに頑張った人を土地の人が愛さない訳がないよね。
お菓子もおいしそうだし。
投稿者 shiratori : 2007年01月27日 12:29
白鳥さん,そんなに気の毒がってもらえて,きっと常長も喜んでいると思いますよ。昔の武士階級の人たちは,責任感も強いし忍耐力もあったように思いますよね(昔の人はみんな,かも)。
お菓子も驚くべき美味しさというわけではありませんが,優しくて奥深い味です。何といっても,このお菓子を作っている会社は,この一品しか作っていないんです。その心意気にまた打たれますよね。しかも,普通のこのお菓子は直径が5cmくらいなのですが,皆で食べる用に直径25cmくらいの巨大版もあって(10~15人分程度らしい),仙台駅ビルでは常時販売しています。東京でのある打ち合わせのときにその巨大版を持っていったら,それだけで大受けでした。
投稿者 ひよこ : 2007年01月28日 10:12
イタリア在住者です。昨日旅でCivitavecchia(チヴィタヴェッキア)と言うところに寄って来ました。当時ローマに最も近い港として栄え、そこに支倉翁一行が上陸したとの話を聞いて寄ってみた次第です。港の一角に支倉翁を称える銅像と碑が飾られています。よろしかったら写真を送りましょうか。
投稿者 Kazby : 2007年04月30日 20:19