災害の経験から見えてきたこと ー北海道胆振東部地震の経験からー

佐藤厚子

 2018年9月6日3時7分、突然目が覚めると(地震のため目が覚めたと思います)、家の中がガタガタと揺れはじめました。私の住む札幌は震源から約80km離れていて、しかも自宅のある場所は、地震でもあまり揺れない場所ですが、結構長い間揺れが続いたと思います。すぐにテレビをつけ地震情報を確認したところ、かなり大きな地震が発生していました。札幌は部分的に震度が大きかった場所もありますが、全体としては震度4以下、自宅は震度2程度であったかと思います。その後15分から20分経過したころ停電となりました。このとき初めて聞いた人もいるかと思いますが、ブラックアウト(大手電力会社の管轄する地域のすべてで停電が起こる現象 需要と供給のバランスが崩れると連鎖的に発生)です。停電が自宅だけなのかの確認もあり、外に出ると近所の人も出ていて、停電ですねーなどとのんびりしていました。のんびりついでに空を見上げると、9月のこの時間はまだ日が昇っていないので、星がとってもきれいでした。そのうち電気は復旧するだろうとのんきに構えていました。

 私の職場では、震度5以上になると職場に参集することになっています。なので、参集がないと思いのんびりしていました。ところが、職場から安否確認があり、職場に出てくることができるかと聞かれました。まだ停電が続いていたので、信号がつかない状態、地下鉄、JRも停まったままでしたので、職場に出てくることができない人が多くいました。私は職場と自宅が徒歩30分程度なので、徒歩で職場に行くことにしました。おそらく職場で昼食はないと考え、ガスでご飯を炊いておにぎりを持って行きました。案外ガス炊きご飯も簡単でした。幸い断水はありませんでした。

 我が家は給湯・暖房は灯油、調理はガス、照明は電気とエネルギーを分散しています。停電があってもお風呂も大丈夫でした。近所に住む子どもの家は暖房のみガスでその他は電化です。このため、自分の家族の食事のために私の家のガスを借りにきていました。このときは光熱関係を分散するのはいいことと思いました。3年前から薪ストーブにしたので、暖房は薪になり、より分散されました。

 札幌は8月の平均気温は最高で26℃、最低で18℃と比較的過ごしやすいのですが、1月だと最高で-3℃、最低で-12℃のようです。地震が9月上旬で比較的暖かいころだったので、暖房の必要がなかったのですが、これがもし1月ころであれば、凍死の可能性があります。暖房が灯油といっても電気がないと不完全燃焼となり危険ですし、集中暖房だと暖かい液体を家中に回すための動力も電気となります。結局電気がないとかなり危険です。

 交通機関が麻痺したため、職場に来ることができない職員は自宅に待機していましたが、電気がないため、スマートフォンの充電もすぐ切れてしまうらしく連絡が途絶えてしまいました。しかし、公衆電話は災害時に無料で使用できる仕組みになっていました。ただし、電話をする相手の番号もほとんどがスマートフォンに入っているので、何か別なところに保管しておかないと、電話もかけられないという状態でした。

滑り落ちた斜面

 一方職場では、自家発電施設があり、PC、テレビなどから地震に関する情報を取り込むことができ心強く思いました。さらに非常食の備蓄があり、超高カロリーなパンや缶詰などが職場で振る舞われ、自宅にいるよりはかなりいい状態でした。ほとんどの民間会社では、電気がないと仕事ができないため、電気の復旧まで休業の状態でした。当然公共の職場なので、スマートフォンの充電をしたい方には提供できる状態でしたが、借りに来た方はいなかったかと思います。もしそのようなことにあった場合は、公共の機関、市役所などいかにも公共というところではなく、私の職場のような機関を調べておくこともいいと思いました。

 私の職場は研究所なので、このような自然災害があったときの地盤の被害の調査に行きます。この地震でも担当のチームでは現地調査をすることになったのですが、車を格納している車庫のシャッターが電動なため、動かず調査の車が出せないという状態でした。自家発電の電気は車庫につながっていなかったようです。なんだか間抜けな感じです。1年後くらいに車庫のシャッターが手動でも開閉できるようになりました。

 そして、信号がないため流通がなくなり、食品をはじめとするあらゆるものが売っていなくなりました。自宅から食べ物がなくなるということはほとんど想像ができなかったのですが、職場の独身の方は、日々買い物するために一日でもお店に品物がないと食事をとれないと言っていました。全く危険な状態です。

 この停電は2晩続きました。1日目は冷蔵庫や冷凍庫にあるもので過ごしました。冷蔵庫や冷凍庫は開閉しないと、案外中のものはそのままでした。夜は懐中電灯の中でご飯にしましたが、天井の物干し竿にくくりつけて部屋を明るくしました。これは便利でした。

焼肉の例

 2日目も我が家は冷蔵庫と冷凍庫の中のものでなんとかしのぎました。多分1週間くらいは過ごせたかもしれません。私の住むところは初夏から秋にかけて、土日ごとに焼き肉をする習慣があります。2日とも焼き肉の人たちもいました。なんだか楽しそうに見えました。

 私の住むところでは、3日後には電気が通じて日常生活に戻れました。しかし、地域によっては復帰まで4~5日かかったところもあったと聞きます。流通が元に戻るには1週間程度かかったような気がします。納豆、卵、牛乳がどのお店からもなくなってしまいました。この間、「どうしようもない」ため仕事は停まっていたと思います。最近はコロナのためやはり「どうしようもない」ために停まっていました。

 この地震で感じたことは、リスクを考えていろいろなことを分散させることが大切であると思いました。また、いざこのようなことが起こったときは人的な被害がなければ、少しのんびり構えた方がいいとも思いました。焦ってもどうにもならないです。過ぎてしまえばもう忘れてしまいますので。それと、常に、こんなことが起こった場合の想定をして生活していくのがいいと思いました。あのときは発電しながら聞くことのできるラジオを買おうと思っていたのに、まだ買わないでいます。真面目に考えないと。

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